第二の性、onlyとother。
通称『WO』と称される性は、内分泌系、特に性ホルモンの研究が飛躍的に進んだ過程で発見された。
北欧や米国に多く存在し、日本には明治維新後に概念が輸入される。国際WO連盟が設立されたのは戦後であり、明確な定義付けがなされてから百年にも満たない性であるが、その存在は古くから確認されていた。
【only】は、other相手でないと妊娠できない。
otherに対して好意を持ち愛情が昂ると、single‐minded(SM)ホルモンが分泌され、妊娠可能な身体に変化する。
SMホルモンが分泌されるまでの過程については、解明過程である(※affectionフェロモンについては後の講義で)。
onlyは繁殖対象を探すため、常に性的興奮(SA)フェロモンを放出している。
一生涯に一人の相手と連れ添う個体が多いため、onlyと呼ばれる。
onlyがSMホルモンを放出する相手になり得るother(=愛情が昂る相手)は個体により異なる。
その中でもonlyが特別と認識した希少な存在をspouse(生涯の伴侶)と呼ぶ。spouseを得たonlyのフェロモンはspouse相手にしか作用しなくなる。
男女問わず妊娠可能だが、SMホルモンを放出できるほどの「特別なother」や「spouse」に出会う可能性は低く、生涯妊娠出産をしないonlyも多い。
【other】は、only・other・normalの総ての性を妊娠させられる。
同性異性問わず種付けが可能だが、比較的男性に多く見られ、容姿の良い個体が多い。
onlyが発するSAフェロモンの|受容体《レセプター》を有する。
SAフェロモンを感知すると受容体が刺激される。発情(E)ホルモンが過剰に分泌され、性的興奮で脳内が満たされる。onlyと性行為に及ぼうとする本能が強まる。
onlyを妊娠させて子孫を残したい本能が強く、otherは意識的にも無意識にもonlyを求める。
故に、大量のSAフェロモンを感知すると自制がきかないotherが多い。穏やかな性格であっても豹変し、攻撃的かつ一方的にonlyとの性行為を強行しようとする。射精すれば興奮が冷めて元の人格に戻る。
性的感情が昂ると、promotion of estrus(POE)フェロモンを放出し、onlyに発情を促す。
onlyに限らず、normalも、other同士でも妊娠させられる。女性であれば自身も妊娠できる。妊娠に対してマルチな能力を有しているため、otherと呼ばれる。
onlyのspouseとなったotherは、spouseのフェロモンにしか反応しなくなる。
【normal】は、onlyにもotherにもカテゴライズされない性である。
所謂、一般的な繁殖のメカニズムを有した人々である。
「上記の内容を一言でざっくり説明すると、onlyとotherは惹かれ合う性である、と言えます。脳科学物質の関与が大きいことから、『本能の恋』と呼ばれたりもします」
理玖はスクリーン画面を見上げた。
「維新前の日本では男性の妊娠は妖怪憑きなどと呼ばれ堕胎するのが一般的でした。不吉であるとされ、孕んだ男性も殺される場合がありました。しかし、男性から生まれる子供は少数ながら確実に存在しました」
理玖はpowerpointの画面を切り替えた。
「現代ではWOが世界中で一般的な認識となり、研究者が増え、薬品を始めとした開発も盛んです。onlyのSAフェロモン抑制剤や、otherのSAフェロモン受容体阻害薬については医療機関から処方される薬があります。オンライン診療で郵送で受け取れますので、個人情報保護にもなっています」
powerpointを次の画面に切り替えて、理玖はちらりと講堂を眺めた。
広い講堂がほぼ満席になっている。
(今年も多いな。一年後まで、何人残るかな)
去年の五月も同じ講堂で同じくらいの生徒が理玖の授業を受けていた。
世界的に有名なWOの研究者が講義をするという前振りが大きかったんだろう。
一年経った今、二年生の受講生は半分以下だ。
(注目度が高いとはいえ、マイナー分野には違いないけどね)
内分泌内科など、医師の花形とは言い難い分野だ。
WOについては、発見されたばかりの第二の性として、実生活にも関連した身近な話題ではあるだろうが。
「only/otherともに人口の三割にも満たない性ですが、勉学、運動、芸術など幅広い分野で優秀な結果を収める人が多いのも特徴です」
理玖は気持ちを切り替えて講義を再開した。
「故に、国はonlyとotherの結婚出産を推奨しており、同性間の結婚も法的に認可しています」
小さく息を吐いて、理玖は次のスライドを提示した。
「皆さんもニュースなどで一度は目にした機会があるかと思いますが、onlyは妊娠が極めて難しい性であり、それ故にレイプ対象になり易いという社会的な問題があります」
がさり、と胸の奥が嫌な音を立てる。
昔の記憶が、フラッシュバックしそうになる。
「最近はonly狩りと呼ばれる集団の犯罪が多発しています。onlyを誘拐して人身売買にかけていると噂もありますが、真相は定かではありません」
特定の相手でなければ妊娠しないonlyは性玩具にされやすい。
onlyがSMホルモンを分泌しないように躾けて売り捌いている、なんて噂がある。ある種の都市伝説のような話だが、完全に否定も出来ない。
『フェロモン振りまいてるお前が悪いんだよ、向井。俺だって、ヤりたくてヤってるわけじゃない。これは本能だからな。どうせ、俺相手じゃ妊娠しないだろ。お前も気持ち悦くなれて特だろ』
そう言いながら理玖の頭を押さえつけて無理やり突っ込んだのは、中学の担任教師だった。
優しくて頼りがいのある、生徒にも親にも人気がある先生だった。
レイプされて初めて、担任教師がotherだったと知った。
(発情するとotherは別人格になる。自分が射精するまで只の獣になる)
otherが豹変する様を、理玖は身をもって知っている。
理玖を犯した中学教師は懲戒免職になり、教師をやめた。
そんな現実が怖くて、理玖は日本での高校進学を断念し、ロンドンの大学に飛級進学して医師免許を取得した。
あの時ばかりは、頭が良くて良かったと思った。
オメガバースに設定が似てると思うんですが、最初はオメガバの異種バーションみたいに書こうと思ってました。 でも、中盤以降、ミステリー展開が深まるとオメガバでは設定に無理が出るなと思って、新バースを作りました。 しばらくは読み進めても「これオメガバでよくね?」って思うと思うんですが、 もうちょっと読んでもらえたら、WOバースを作った意味が徐々にわかってもらえるんじゃないかなって思います。 その頃には今より面白いと思ってもらえるんじゃないかと思います。
「俺、秋風音也っていうんだけどさ。宿木サークルのサークル長なんだけど、顧問の臥龍岡先生も、向井先生と話したいって言ってたんだ。WO相談会やりたいんだってさ」 臥龍岡という名とWOという単語を聞いて、満流は思わず前のめりになった。「WO相談会? 宿木サークルって、何をするサークルなんだ?」 秋風が考えるような仕草をした。「あー、色々? 好きな本の話とか、悩み相談とか、雑談とか。サークルとか入ってない奴らの溜り場みたいな感じだよ。顧問が臥龍岡先生だから文学の話多めかな。あと、臥龍岡先生が自分がonlyって公表しているから、WOの話も多いぜ」 臥龍岡叶大といえば、文学部の准教授でありながら純文学の作家でもある。甘いマスクと穏やかな語り口、何よりonlyと公表している話題性で、メディアにもしばしば引っ張られている人気者だ。 つくづく慶愛大学は売り文句が付く学者や教授が好きだなと呆れる。「なるほどね、そりゃ、話聞きてぇわな。WO専攻って、学内に折笠先生と向井先生だけだもんね。けど、臥龍岡先生は折笠先生と昔から仲良しじゃん。よく遊びに来るし、それはもう長居してるぜ。折笠先生に相談すればいーんじゃねぇの?」 特に用事もなく、茶飲み友達風に折笠の研究室に居座っている。 古い関係と折笠が意味深な言い方をしていたから、昔から愛人なんだろう。 さりげなく用事を頼まれて研究室を追い出されることも多い。察して部屋を出るが、戻ったタイミングでまだヤっていたりする。いい加減、愛人とは外で遊んでほしいと思う。(鈴木の時は俺を追い出さないで始めちゃったけどなぁ。視られるスリルが好きなんだろうな) 視感プレイというか、羞恥プレイというのか。 どんなプレイが好きでも構わないが、巻き込まないで欲しいと思う。 otherの満流は、他人
「あ、でも冴鳥先生は忘れ物したんだろ? 探さなくていいの?」 秋風に話を振らせて、冴鳥が頷いた。「秋風君の友人が心配だから、一緒に行こう。ただ……」 冴鳥が満流に向き直った。「デニム地のペンケースを見付けたら、持っておいてもらえますか? 向井先生の講義の前が俺の講義で、その時に忘れたようなので。大事なUSBが入っているから、保管しておいてほしいんです」 満流は周囲を見回した。 それらしいものは、見える範囲にはなさそうだ。「向井先生の荷物に紛れているかもしれないんで、探しておきますよ。見付けたらお届けします」「ありがとうございます」 秋風と共に積木の体を支えて講堂を出ようとした冴鳥が、突然立ち止まった。 積木の体ごと引っ張られて、秋風が軽くよろめいた。「片付けを頼まれるくらい、佐藤さんは向井先生と仲が良いのですか?」 問われて、言葉に困る。 どう考えても仲良しではない。むしろ理玖にとっては性敵だろう。「折笠先生と向井先生が仲良しなんでね。その繋がりで仕事のお手伝いは、時々しますよ」 手伝いなど一度もしたことがないが。 むしろ理玖は折笠が嫌いだから仲良しでもない。 共通点はWO専攻の学者で教員である点と、理研という古巣だけだ。「そうですか。その……、向井先生は、人見知りなど、しない人、でしょうか?」 突然、ナナメな質問が飛んできて、満流は首を傾げた。「そりゃ、冴鳥先生の方だろ。人見知りしまくり。今日はいっぱい話せたよな」「秋風君が一緒だからね。君がい
「ありがとうございます。後で色々聞かせてください。……佐藤先生」 講堂を走り出した向井理玖から、懐かしい呼び名が飛び出した。 満流の脳裏に十四年前が過ぎった。 飛び抜けて頭が良かった神童は、同世代の子供たちからは浮いていた。IQが80以上違うのだから無理もない。教師の満流ですら理玖との会話には気後れした。 内気で人見知り、物静かな少年は窓際の後ろの席で読書に耽るばかりだ。だから積極的に話しかけた。 話す機会が増えて、素直な質を知り、笑顔が可愛いと知った。 控えめな笑顔の奥に小さな恋慕が見え隠れした瞬間から、記憶が無い。 きっかけは些細な会話だったと思う。 気が付いたら涙でぐちゃぐちゃの理玖の顔を押さえ付けて、突っ込んでいた。 たまたま通りかかったPTAの会長と教頭に取り押さえられた。 あの時、満流の人生は終わった。(そうだ、終わったんだ。俺はもう、教師じゃない) 話すことなど何も無い。 惰性のような人生を、ただ漫然と生きてきただけだ。「色々? 嫌だよ」 笑みを含んだ満流の声が理玖に届いたか、わからない。届かなくて良かった。 満流は、床に転がる積木大和を見下ろした。 周囲を確認する。 教壇の近くに医療用の細い注射器が落ちていた。中には白い薬液が満たされている。「プロポフォールか? 呼吸止まったら、どーすんのかね」 理玖を眠らせて誘拐でもするつもりだったのだろうか。 少なくとも殺す目的では無いだろう。 世界的ダンサーの死因になり一般にも薬剤名が知れ渡った麻酔薬は、鎮静鎮痛作用がある。麻酔導
「とはいえ、WOを虐げるnormalは他にもいる。にも関わらず、折笠先生がターゲットになったからには、もっと直接的な理由がありますよね。やっぱり、かくれんぼサークルやDoll関係ですか?」 理玖の問いかけに、國好と栗花落が同時に口を結んだ。 栗花落が國好に目を向けた。 國好が決意したように、理玖と晴翔に向き合った。「犯人が殺したかったのは、Dollの折笠です。折笠の件で発見された、Dollの集会参加者リストと|愛人《ペット》購入者・|セフレ《レンタル》利用者リストには、この大学の教授や准教授の名前が多数、ありました。それだけでも収穫ですが、まだ足りない」 折笠の自殺未遂は当初、自殺他殺の両面から捜査されていた。その経過でかくれんぼサークルの乱交集会の証拠品が押収されるのは不思議ではない。「興奮剤の種類や入手ルートとかですか?」 理玖は首を傾げた。「それについても、データと現物を押収しています。かくれんぼサークルの乱交集会では、やはり興奮剤が使われていました。only用、other用は独自のルートから海外の医薬品を取り寄せていたようです。normal用には一般の薬剤やサプリメントを|混合《ブレンド》して使用していました。ブレンドは折笠が自身で行っていたようです」 理玖は真野の話を思い出していた。 真野がしきりに飲まされたという水は、折笠がブレンドした独自の興奮剤だったのだろう。(折笠先生なら海外からWO用の興奮剤を取り寄せるのは簡単だ。理研のルートを使えばいい。normal用の薬の入手は、もっと簡単か) 売春防止法に照らし合わせれば、売春買春した人間は基本、罪に問われない。罰せられるのは、斡旋し場所を提供した折笠だろう。 興奮剤についても携わっていたのが折笠なら、違法薬物所持の罪は折笠にある。&
理玖の推論を静かに聞いていた國好が、小さく息を吐いた。「やはり、鈴木圭ですか……」 國好が険しい顔で呟いた。「鈴木君には殺す気などなく、ただ折笠先生を独占したいが故に、主犯の言葉に乗せられたのではないかと考えますが」 言葉を切って、理玖はもう一度、頭の中を整理した。「そうなると、僕らが来訪する予定の午後二時に狙って折笠先生の心臓を止めるのは難しいだろうという矛盾が生じるので、あのタイミングでの心停止は偶然の可能性が高くなります」 鈴木圭の恋心を利用して興奮剤を盛っていたのなら、明確な日時までは狙えなかった筈だ。偶然に期待するなら、PC画面に表示された『贖罪と懺悔』の意味が薄まる。(僕らじゃない誰かが、いつ発見したとしても、あのPC画面が見つかれば自殺の可能性を煽るから、それで良かったのかもしれないけど)「偶然であり必然ともいえます。折笠は毎日定時に服用する強壮剤のサプリがあって、その内服時刻が午後一時だったそうです。カフェイン含有量から見て、心停止の直接の原因はそれだろうと、主治医が話していました」 なるほどと、理玖は納得した。 不定期にも定期的にも興奮剤を使用する折笠のカフェインの血中濃度は高かった。加えて平素からコーヒーを愛飲し、健康系のサプリまで定期摂取していれば、心停止の率は上がる。(あの時、折笠先生が持っていたカップから零れていたのもコーヒーだった) 午後一時に飲んだサプリが消化吸収されるには三十分から一時間程度を要する。時間的にはピッタリだ。「サプリが|直接の原因《トリガー》になった要因として。恐らく前日までの直近に、普段より強い興奮剤を使用するなどして、血中濃度が平素より上がった為で
部屋の中に入ったら、何もなかった。 家具から本棚、机まで撤去されている状況に、唖然とする。「え? あれ? 部屋、間違えた?」 晴翔も理解できない顔で國好を振り返っていた。「では、移動しましょう」 國好が部屋を出ていく。 栗花落に腕を引かれて、理玖と晴翔は二つ隣の201号室に入った。 二部屋隣とは言っても、第一研究棟の二階は、二部屋を繋げたリノベーションがされている。本来、六部屋あったフロアには、三部屋しかない。 理玖が使っていた203号室も、仮眠室がある204号室と繋がっていた。 國好が201号室の扉を開ける。 中に入ると、先週までの理玖の203号室が、そのまま再現されていた。「週末の内に、僕も引っ越ししたんですか?」 状況が理解できなくて、國好に問う。 ソファに促されたので素直に座った。 勝手知ったる顔で、栗花落がコーヒーを淹れてくれた。「結論から申し上げると、引っ越しました。大学と相談の上での引っ越しです。ご本人への許可なく、事後報告になり、申し訳ありません」 國好が丁寧に頭を下げる。 テーブルの上に、電源タップを三つ、置いた。「向井先生の部屋に仕掛けられていた盗聴器です。向井先生に起きた一連の事件の話を聞いて、もしやと調べたら案の定でした。折笠の件に追われて対応が遅れたことも、お詫び申し上げます」 隣にかけた栗花落と共に國好が再度、深く頭を下げる。 理玖に起きた事件の話をしたのは、先週の水曜日、折笠の所に行く直前だったから、遅い対応ではないのだろうが。 あまりの話に、咄嗟に返事が出来なかった。